メキシコと日本

以前スリランカの話を記させていただきましたが、今回はメキシコとの関係の話です。

昭和53年10月に日本にメキシコの大統領ホセ・ロペス・ボルティーリョが訪れました。その折、公式行事の後、大統領はわざわざヘリコプターで千葉県の御宿という漁村に行きました。そこにはメキシコとその村との深い因縁があったからです。

昭和53年からさかのぼること369年前、慶長14年(1609年)、天下分けめの関ヶ原の合戦から9年たった時代のことです。
マニラからメキシコに向かって太平洋を航海していた船、サンフランシスコ号が暴風雨に遭遇し、日本の房総半島沖まで流され、御宿という村の沖で岩礁に乗り上げて沈没してしまったのです。
それを知った御宿の村人は総出で救出に向かいました。特に女性たち、海女さんが大活躍したそうです。
何度も事故現場を往復しては溺れている人を岸へと連れて帰りました。自分より大きな男ばかりです。でも命がけで船の乗組員373人全員を救ったのです。
岸に上げると村人は船員の冷えた身体を抱いて暖めたそうです。船員たちに徐々に血の気がもどると我がごとのように喜びました。そして惜しみなく自分たちの食べ物を与えました。
船の船員ロドリゴはその時のことを「日本見聞録」に、日本の婦人たちは情が深く、私たちが快復したことを涙を流して喜んでくれたと記しています。

やがて乗組員全員は江戸城に呼ばれ、時の将軍徳川秀忠に謁見しました。その後、駿府(すんぷ)にいる徳川家康の所にも訪れています。家康は船員の処遇をどうするのか…。
何と家康は、イギリスから日本に帰化した家臣、三浦按針(みうらあんじん)が建造した120トンの船をメキシコ人にプレゼントして、その船で彼ら全員を故国に帰らせたのです。太平洋の向こう、はるかかなたの国の人に、もう二度と会うことはなくても、日本は最高の対応をしたのです。

このことは以後300年以上メキシコで語られ続けていたのです。それでメキシコの大統領が千葉の御宿という漁村に行き、「我が国の乗組員がまさに死なんとしているところを皆様のご先祖に助けていただきました。」と感謝の言葉を述べたのです。

実は日本もメキシコに助けてもらっていたことがあったのです。明治維新の後、日本は開国して他の国々と国交を結ぶとき、西洋の国々は日本に不利な不平等条約を押しつけてきました。日本はとても困り果てていましたが、このメキシコが最初にお互いに対等な条約を結んでくれたのです。それがきっかけで後に他の国々とも対等な国交が結べるようになりました。300年以前の人たちの御恩の恩恵を子孫たちが受けていたのです。

江戸時代の初期の人々は異国の人に無償の行為をし、またその恩をずっと忘れずに伝えてきていたメキシコの人々もこれまた素晴らしいと思います。恩というものを代々伝えてゆく文化がメキシコにはあったのだと思います。

浄土真宗本願寺派 教専寺 福間義朝 『赤口』より