松江豊寿(まつえとよひさ)

人生において自分の受けた苦しみから、その体験を怨み、憎しみにして自分の中に記録してゆくのか、
同じような苦しみを受けている人への思いやりに転じてゆくのかによって、人生も周りの世界も大きく異なってゆきます。

大河ドラマ「八重桜」にもあったように、会津の人達は自分達が賊軍とされたことに怒り、徹底抗戦をして敗れました。
その後会津藩の人達は、青森県の一地域に移住させられ、そこで飢えと寒さと貧困の中に耐え忍んで生きてゆきました。
やがて明治になり廃藩置県が行われ、自由に住む場所を選べるようになりました。
しかし賊軍の汚名は消えず、就職先も無く、多くの人が食べてゆく為に軍人となり、戦争の時は最前線に立ちました。しかし軍隊の中の出世も難しかったそうです。

その会津出身の軍人の中に松江豊寿(まつえとよひさ)という人がいます。
彼は俘虜収容所長として世界で有名です。
1914年に始まった第一次世界大戦の時、イギリスと同盟条約を締結していた日本は、
中国の青島(チンタス)に駐屯していたドイツ軍と戦い、ドイツ人捕虜400人が日本に送られ、12か所の収容所に分散されました。
後にそれが6ヶ所に統合され、その1つが徳島県鳴門市にあった坂東俘虜収容所で、1,000人のドイツ兵が収容されました。そこの所長が松江豊寿なのです。

彼は1,000人のドイツ兵にとても暖かく寛大に接しました。
外出時間の門限も大幅に遅くして、ドイツ人ができるだけ日本人と自由に交流できるようにいたしました。
ドイツ兵達は海や川で水泳を楽しみ、西洋の泳ぎを日本人に教えました。
またレスリング、サッカー、テニス、野球など、その当時日本ではまだ珍しいスポーツをしては、日本人に伝えてゆきました。

軍の上層部からは、敵国の捕虜だから甘くしてはいけないというお達しが何度もありましたが、
松江豊寿の英断で、ドイツ兵に対して人間の尊厳と自由を守る態度を貫きました。

何故なら松江のお父さんは会津藩の武士で、城に籠って最後まで戦った人だったからです。
落城してからは青森の極寒の地で捕虜のような生活をしました。
松江はそのことをお父さんから聞かされ、敗れた者の悲しみを誰よりも判っていたのです。
松江はいつもドイツ兵について部下たちに言ったそうです。
「彼らも祖国の為に戦った人たちなのだ」と。

また松江は、ドイツ軍兵はアジア各地より急きょ集められた人たちで、
その中には様々な職業の職人がいることを知って、彼らから、家具やパン、ソーセージ、ビール、チーズ、バームクーヘン等のお菓子の作り方を、日本人が学べるようにしました。

そして一番有名なのが音楽で、松江は収容所の中に楽団を作らせて演奏会を開き、多くの日本人が初めてオーケストラという音楽を耳にしました。
日本で最初にベートーベンの「第九」が演奏されたのも、徳島の坂東俘虜収容所なのです。

やがて戦争が終わっても、そのまま日本に残るドイツ兵もいたそうです。祖国に帰ったドイツ兵もいつも
「マツエにまた会いたい」といい、そして今でもドイツでは松江の名は語り継がれています。

浄土真宗本願寺派 教専寺 福間義朝『赤口』より