競争

心理学・社会学・教育学の博士である小林正観(せいかん)という人の本を読みました。彼は一流大学を出たエリートです。団塊の世代で、小、中、高と努力型で勉強しました。人より抜きんでること、競争に勝つことが幸せへの道であると教えられ、一生懸命頑張ったのです。

その彼の人生に大きな衝撃が訪れました。結婚して三年、やっと授かった子が知的障がい児だったのです。それは彼の人生での初めての障害であり、その事実を受け入れるのに半年かかったそうです。

小林さんはわが子について書かれています。その子は女の子で、争う、競争するという概念は全く無いのだそうです。ですから小学校に入っても、運動会の徒競走ではいつもビリと決まっていたそうです。ところがある学年の運動会の時、クラスメートで足を怪我してよく走れない子がいたそうです。小林さんは「今年こそうちの子はビリにならないかもしれない」と内心楽しみにして運動会へ出かけました。いよいよ我が子の徒競走です。何と我が子と一緒に走っていた怪我をしていた子が転んでしまいました。すると我が子は走るのを止め、転んだ子供の所へ引き返して手を差し伸べて起こしたそうです。そしてその子の手を引いて走ってゴールに押し込み、やっぱりビリになったそうです。すると運動会会場から割れんばかりの拍手が起こりました。その運動会でどんな勝利者よりも最高の喝采だったそうです。

小林さんはその時、今まで持っていた競争に勝つという価値体系が大きくぐらつき始めたそうです。「いったいほんとうの意味の勝利とはどういうことなのだろうか…」と。

小林さんはその女の子の一年後にまた女の子を授かりました。一才違いの姉妹です。その二人が遊んでいる時、次女がお姉ちゃんの遊んでいるおもちゃを無理やり奪ってしまう。しかし争うということのないお姉ちゃんはすぐにおもちゃを渡してしまい、別なおもちゃを取りにゆく。また妹がおもちゃを奪いに来るとすぐに渡して別なおもちゃを取りにゆく。

それが四回ぐらい繰り返されると妹は奪うのを止め、一緒に遊び始めるのだそうです。そのうち妹も争わない性格の子になってしまったそうです。もしお姉ちゃんが奪われる時引っ張りかえしていたら、妹はさらにひっぱり、そこに戦い奪い取る勝利というものを覚えてしまっていただろうと。争いの意味の無さを下の子は自然に覚えたわけです。

小林さんは述べておられます。この娘を授かったお陰で、争うことの無い広い世界を知らされたと。

佛法では戦いで勝ということではなく、それを超えてゆくことが説かれます。保育園児の争いは、中学生からは微笑ましいものとして見えるでしょう。中学生の争いも、大人から見れば、何と愚かなことが原因なのだろうと思うでしょう。私たちの争いも競争も、佛法から見れば小さくて愚かなものでしょう。
争いを超えてゆく広い世界を歩ませていただきましょう。

浄土真宗本願寺派 教専寺 福間 義朝 著『赤口』より